HISTORY of KITASEI

北清商店の歴史

昭和54年 業界紙「市場春秋」に
先代坂井善一郎のインタビューが掲載

中央卸売市場は生鮮食料品流通のカナメである。
市場を構成する業者は、卸、仲卸のいずれも取扱商品についての専門知識を持っていることが要求される。
そうした専門家たちが寄り合って、その日その日の需要、供給のバランスを考え、
一品々々の品質を見抜いて公開セリを通じて作る相場だから、物価の重要な項目である。
食品市況の基本として重要視される。
「それにしても、この頃の量販店の仕入れ係など、商品知識がおまへんなあ・・・」と嘆くのは、
元大阪中央卸売市場蔬菜部商議委員、坂井善一郎氏。現在、大阪本場の坂井商店は長男の克己さんに、
昨年開業した大阪府中央卸売市場の北清商店は次男正善さんに委せて、自身は両店の相談役となって
第一線を退いている。「わたしは、徳川時代以来つづいた天満の“北清”のノレンを継ぎましたよって、
小僧の時からたたき込まれたもんだ」坂井さんは明治四十三年生まれ、七十歳に近い。
紀州の片田舎から学校を終えるとすぐ大阪天満の青物問屋に奉公した。
「大根の北清」といわれる根菜類専門の問屋だった。坂井さんの大根に情熱をかける生涯がはじまった。
大正の末から昭和にかけてその頃は大阪でも大和川以北、現在の住吉区、東住吉区あたりで
盛んに市場へ出す野菜が作られていた。
七月中ごろから八月にかけての盛夏、何も菜っ葉類のない端境期、
今のように遠い信州から高原野菜なんか来なかった時代。
大根のまびき菜が市民によろこばれた。竹で編んだ大型の皿のように浅い丸籠に盛ったのが貝割菜、
すこし大きくなれば、束にもして出荷される。それが大きくなれば中抜き大根、
他に葉菜類のないときにこうしたものを商材にした。
貝割菜で商売になるなども天満の問屋あたりの努力があったからだ。
今でいう産地指導、産地育成といったところか。
坂井さんが若い頃は、船場、道修町の大問屋の勝手元に頼まれて、澤庵の漬物をしに回ったそうな。
丸紅とか、武長とか、大きな問屋のお勝手元は幾人もの女中をおいて、
住み込みの小僧、中僧、番頭たちの食事を賄っている。
一年間に消費する澤庵でも大したものだった。五十樽も六十樽もの漬物をするのだから幾日もかかった。
天満から舟で横堀川を渡って大根を運ぶ。
当時パンの製造販売では天下に名を響かせていたマルキ」の本店(四ツ橋にあった)へ大根をつけにいった時には、
帰りに出来立てのパンを貰って帰った。
思い出となるとツラかったこと、冬の寒い朝に凍てた大根をあっかうつらさなどは忘れて
あの時のできたてのパンのぬくもりだけが思い出されると・・・
坂井さんは修行時代を思い出す。
天満でも高名の大根指定問屋のノレンを継ぐことになって、
坂井さんはふるさと・紀州の大根をひと手に引き受けるようになる。
南海電車でどんどん難波駅に着く「天満へは舟で運ぶ。
当時既に開設されていた大阪市中央卸売市場には一本も入荷せなんだ。大根の北清を戦時中も立派に守った。
みな天満へ運ばしたもんや」天満に残った北清のノレン、
ー雨が降るーこの雨でどこの大根は生育はどうなんや。ー天気がつづくーこれではどこの大根はどうなるんやろ。
坂井さんは雨の一ふり、風のひとふきで勘がはたらくように働くようにまでなった。
統制経済でしばしば当局と対立したが、産地を守り良い大根を一本でも市民にーの熱情には
取締当局も歯が立たなかったとか。
戦後、大阪本場に出店したが坂井さんの大根についての専門知識が、
作付品の選択に迷う開拓地を助け、指導し、立派に育てあげた。
岡山県にヒルセン高原がそれで大阪市場へ出てくる大根の有力な産地である。
ヒルセンが大根の主産地になるまでには、坂井さんの力が大きく働いている。
早生種を作り、冬大根にもとー播種から育成、出荷時期についてまでものきめ細かいアドバイスが
農業経営にまっていた開拓組合を力づけたことか。
こうした努力は、総理大臣、農林大臣からの数多い感謝状、表彰状として託されている。
中央青果の中島専務とは、無二の親友とか、若い時から酒を酌み合い、肩をたたきあった仲だとか。
まだまだ元気に、商品知識にウトイ買い付け人をしかり飛ばす元気はあるとお見受けした。ご自愛を祈りたい。
(昭和54年7月19日掲載)

天満青物市場跡


  • 天満青物市場跡の石碑

  • 「天満の子守唄」の石碑
江戸時代に始まり、昭和六年までのおよそ三百年間もの長い間、青物の取扱を独占していた天満青物市場が
現在の天満4丁目付近にあり、北清商店も古くから卸売りを行なっておりました。
天満青物市場は、堂島の米市場、雑喉場の魚市場とともに大阪三大市場とも言われ、
大変活気のある市場であったとされています。
その活気の象徴として、「天満の子守唄」があり、近畿一円にとどまらず、
中国地方や四国などでも歌われており、その影響力知ることができます。
現在では、石碑が南天満公園に建てられております。